まだ織田信長のもとで羽柴秀吉が播磨攻略を進めているときのことだ。黒田官兵衛に宛てた秀吉の手紙のなかでは「我ら弟の小一郎め同然に心安く存じ候」(わが弟の小一郎と同じように心から信頼している)という言葉がある。
黒田官兵衛はもとより、弟との信頼関係が伝わってくるが、のちに秀吉が大和国の統治を任せたことでも、いかに秀長を頼りにしていたかがわかる。
なにしろ、大和は東大寺、興福寺、春日神社、多武峰寺と寺院勢力が強い地域である。統治が難しい場所だったが、もともと大和を治めていた興福寺衆徒の筒井順慶が死去すると、秀吉はすぐに動いている。
筒井順慶のあとを養嗣子の息子・定次が継ぐと、筒井家に伊賀への国替えを命じている。そして、秀長を大和へと送り込んでいる。
寺院勢力をコントロールしようと苦心
そうして天正13(1585)年8月、秀長は秀吉より大和国を加増される。天正15(1587)年8月には、大納言の官職を授けられたことから「大和大納言」と呼ばれた。これで秀長は、大和・和泉・紀伊3カ国の大守となったことになる。
藤堂高虎の一代記『高山公実録』による「食禄百万石」はやや大げさで実際は80万石程度だったともいわれるが、大役には違いない。
寺院勢力を牽制すべく、天正13(1585)年8月15日、多武峰寺から弓や槍、鉄砲、具足、兜、刀といった武具類の提出を命じた。いわゆる「刀狩り」と呼ばれる寺院の武装解除である。秀吉が天正13(1585)年4月に高野山の武器をすべて没収しており、秀長もそれに続いたことになる。


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