天正13(1585)年8月、秀吉より大和国を加増された秀長は、武器の没収や年貢徴収の厳格化によって寺院勢力を牽制。その一方で、強引に石をかき集めてまで、郡山城の本格的な築城にも踏み切った(前回記事「《豊臣兄弟!》"石が採れない土地"になぜ巨大な城?秀長が拠点とした「郡山城」の城造りの謎」参照)。
さらに秀長は城の外、つまり城下町を繁盛させるためにも大胆な手を打っている。天正13(1585)年10月15日と、まさに秀長が入府してすぐのタイミングで、こんなお触れが出された。
「奈良中ハ一切ノ万ノ商売被止之、於郡山可有売買ト云々」
(「奈良における商売は一切禁じる。商売を希望する者は必ず郡山で行うこと」)『多聞院日記』
当時は日常品だった味噌、酒、柴、木、菜、海苔など、すべて郡山城下のみで商売が許されることとなった。
秀長が貫いた「郡山城下町ファースト」
奈良の商人が泣きついたことで、幾分か緩和されることにはなったが、原則的には「郡山城下町ファースト」の姿勢が貫かれた。
また秀長は郡山城下で、魚塩町、紺屋町、材木町など商品名を冠した町に特許状を授与。たとえば、紺屋の業でいえば、郡山の紺屋町に住む同業者だけに営業権を認めるなど、商工業の保護にも注力している。
このように同業者の営業独占権を認められた13の町(本町・今井町・奈良町・藺〔い〕町・柳町・堺町・茶町・豆腐町・材木町・雑穀町・綿町・紺屋町・魚塩町)について、秀長は地租を免除。その代わりに、治安維持や防火、訴訟の取り扱いなどを町ごとに請け負うシステムを作りあげた。


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