「何事も何事も美濃守このごとく候間心安かるべく候、内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候、御為に悪しき事はあるべからず候」
(何事につけても私が同じ気持ちでいますので、どうかご安心なさってください。内々のことについては宗易〔千利休〕が、表立った公的なことについては私が気を配っております。あなたにとって悪いようなことは決して起こらないでしょう)
一人ひとりときっちり向き合う秀長の性格を思わせる言葉だ。
それだけに頻繁に京都・大坂・大和と往復しながら、キーパーソンたちと会う日々は、充実しながらも心身への負担もまた並々ならぬものがあったことだろう。
郡山城に入った正妻の「慈雲院」
40代後半へと差し掛かっていく、まさに脂が乗っている時期に、秀長は大和で精力的に内政に取り組む一方で、出世街道をひた走る兄の秀吉を、京都や大坂で支え続けた。
仕事ばかりではなく、家庭面も充実していたようだ。天正13(1585)年9月20日の『多聞院日記』にはこんな記述がある。
「昨日、濃州女中、郡山へ」
この濃州女中が秀長の正妻、慈雲院だとされている。慈雲院が史料に登場するのはこれが初めてであり、前半生は謎に包まれている。
以降の『多聞院日記』の記述をみてみると、慈雲院は秀長の母・なかとしばしば寺社参拝に出かけている。嫁姑関係にありながら、2人の関係は良好で、気が合ったのかもしれない。
秀吉が天下人へと近づくにつれて、公私ともに充実していった秀長。しかし、大切な家族が精神的にも、肉体的にも追い詰められる事態が待ち受けていた。
【参考文献】
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
竹内理三編『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(臨川書店)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
柴裕之編『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(戎光祥出版)
新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社)
河合敦著『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)



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