統治者として冷徹な顔ものぞかせながら、秀長の保護政策によって、国中の各所から商人や職人が仲間を引き連れて集まってきたことはもちろん、他国から城下への移住も相次いだ。
郡山城のもと、大和郡山は商業の中心地として栄えることになった。
そうして郡山城を立派なものにし、城下町を栄えさせた秀長だったが、大和国でどっしりと構えていたわけではなかった。
というのも、秀長が大和に入る前の天正13(1585)年7月11日、まだ四国へと出陣中のときに、秀吉は関白に任官されている。貧農の出身者がここまで高位につくのは、前代未聞のことだ。
秀吉は関白任官の返礼として、禁中で能興行を催したかと思えば、同じく禁中の小御所で初めて茶会を催すなど、お祝いのイベントが相次いだ。
この茶会のために、一人の茶人が正親町天皇から「利休居士号」を賜った。彼はこれ以降、「千利休」として、秀長とともに秀吉政権を支えることになる。
さらに、京都の内野に豪華絢爛な邸宅・聚楽第を築くなど、関白の威光をいかに打ち出すかに秀吉は躍起になった。翌年には、最高位である太政大臣に就任。後陽成天皇から「豊臣」の姓を受けた。
大坂で大友宗麟と面会
秀吉がさらなる高みに上れば上るほど、補佐する秀長もおのずと多忙になる。大和の郡山城に入って約1カ月後の天正13(1585)年9月末に秀長は上洛。10月4日に参議と近衛中将に任官し、従三位に叙せられたとされている。
公家衆のエリート層にあたる公卿となった秀長は、その2日後に正親町天皇と誠仁親王、和仁王らと対面。翌7日にも秀吉とともに参内している。
京で忙しくしながらも、領内への指示は的確に行っていたようだ。秀長が奈良での商売を禁じたのはその数日後のことである。
それ以降も、同年12月22日には、大坂の秀吉のもとを訪ねた小早川隆景を茶会に招き、また翌天正14(1586)年4月5日には大友宗麟と大坂で面会。
隣国の島津氏に対抗するにあたって、援軍を要請する宗麟に対して、秀長はその手をとると、次のように言った(『大友家文書録』)。


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