それから3年後、秀吉が「百姓が刀、脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを禁じる」と広く命じることになる。いわば、刀狩りの試験のようなことを、大和国を治めたばかりの秀長も行ったといえよう。
その後も、大和国を統治したばかりの秀長による、寺院勢力への抑制政策は続く。天正13(1585)年9月5日、秀長は検地(指出)を命じて、寺院に1日がかりで年貢量を算出させている。
興福寺については、何か落ち度があったのか、1万石もの所領を没収。翌年に再度提出させては、さらなる没収を強行している。その結果、興福寺の領地は秀長が入国する以前と比べて、実に5分の1にまで減らされたという。
さらに、秀長は多武峰寺に「6000石の寺領を与える」という条件で多武峰寺の大織冠尊像(藤原鎌足木像)を郡山城に移そうとした。新たな政権に権威づけをしようとしたのだろう。
多武峰寺に拒否されると、秀長は天正15(1587)年11月、郡山城の西方丘陵地に郡山新多武峰の社殿を造営。そこに強引に移転させている。
寺院勢力には厳しく対応させてもらう――。
兄の秀吉に比べると穏健なイメージが強い秀長だが、寺院勢力には容赦なく接したようだ。だが、『多聞院日記』によると秀長は寺社の造営や寄進もたびたび行っていた。
さらにいえば、郡山に新多武峰の新たな社殿を作りそこに移させたのも、寺社内で寺僧同士の対立が深刻化したことから、秀長は解決に動いたのでは、という見方もある。
そんなふうに硬軟おり交ぜながら、秀長は兄の秀吉の期待に応えるべく、大和国の寺院勢力をコントロール下に置くため奮闘することとなった。
石材を集めるのに苦労した「郡山城」
大和国の郡山城は、天正8(1580)年に筒井順慶が、織田信長の命を受けて築城を開始したことから、その歴史が始まる。前年から廃城となった多聞城から大量の石が郡山に運び込まれて、天正9(1581)年5月には奈良中の大工が集められることとなった。
同年8月には明智光秀が工事の見回りのために郡山を訪れていることから、光秀が何らかのかたちで築城にかかわっていたようだ。天正11(1583)年には郡山城の天守が急ぎつくられたことなどが、記録には残されている。
そして天正13(1585)年8月18日、秀長が入府したことで、本格的な城造りがスタートする。


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