最も慎重に扱うべき「生得的属性(個人の努力や意思では変更できない、生まれながらに持っている性質など)」という概念を、他者への揶揄(やゆ)として受け取られる使い方をした時点で、後からどのような意味付けを行っても、その言葉が与えた加害性は消えない。
なぜ、このような異次元の「長文の解説」がなされたのか。当初の意図(その場の勢いの可能性)とその後の弁解(苦し紛れの言い訳の可能性)にもともと一貫性がないから、と考えるのが自然だ。もちろん、これは臆測の域を出ない。
しかし、問題の投稿から「言外の意味を汲み取る」ことが非常に困難であることが、余計に投稿した側の「辻褄合わせ感」を招いてしまっていることも事実だ。その点を踏まえて、まず「解説」が完全に「後付け」である場合について論じたい。
「長文の解説」が後付けの言い訳であると仮定した場合
かつて社会心理学者のジョナサン・ハイトは、『社会はなぜ左と右にわかれるのか 対立を超えるための道徳心理学』(高橋洋訳、紀伊國屋書店)の中で、人間の心を「象=感情・直観」と「乗り手(象使い)=理性・知性」という有名な比喩で説明した。
ハイトが提示した最大のポイントは、人間の知性(理性)は、真理を追求するための「科学者」ではなく、自らの感情や直感を後付けで防衛・正当化するための「弁護士(あるいは広報担当者)」にすぎないという事実にある。
つまり、わたしたちが「頭で考えて判断した」と思っていることの大半は、先に「象(直観)」が「好き/嫌い」「味方/敵」を瞬時に決めており、「乗り手(知性)」は象が決めた進路に対して、後から「もっともらしい理屈」をでっち上げているというものだ。
ハイトは、それを「まず直観、それから戦略的思考」というフレーズにまとめた。この心理モデルを援用すると、「知性の罠」が何を仕掛けているのか、その構造も含めて鮮明に浮かび上がってくる。


※ログイン後、コメント入力が可能です。