『装苑』『ドレスメーキング』などの服飾誌に加え、『主婦と生活』『婦人生活』『婦人画報』などの競合誌が部数を伸ばし、自分で作れる、すぐ役立つ情報が重視されるようになった。
「私たちは、この四、五年の間に、ほかの社でもこんなことが出来る世の中になったのだと言うことを忘れていた」(『生きて行く私』より)
良質な印刷や美しい装丁が特徴で、一流の執筆者を抱える『スタイル』は制作費がかさみ、部数減少は経営を直撃した。よくも悪くも「宇野千代が編集長である」ことが魅力である一方、誌面の刷新が難しいという弱点があり、そもそも追徴金の支払いが重くのしかかり刷新資金がなかった。
紙を納入していた国策パルプ工業(後の日本製紙)社長の水野成夫は協力的だったが、1人の厚意で状況が改善するはずもない。
「することなすこと、左前になる一方であるのに加えて、社の財源はもう底をついて、急場の金策に、高利を当てにするしかなくなったのです。当然のことですが、これが、社の潰滅のもととなりました」(『私の文学的回想記』より)
高利貸しに振り出した手形が暴力団の手に渡り、返済できなければ殺すと出刃包丁で脅されたこともあった。
「いまでも私は、そのとき、金をつくるために私がどんなことを考え出したか、ここに書くことも憚られます」(『私の文学的回想記』より)
着物の仕事は好評も創作活動は停滞
復刊した『スタイル』では千代の着物の記事が定番となった。そのうち、千代自身がデザインした着物や洋服がグラビアを飾るようになり、デザイナーとしての活躍が目立つようになっていく。脱税を摘発された1952(昭和27)年以降、千代の創作活動は随筆や対談がほとんどで、小説は『中央公論』に不定期に「おはん」が掲載された程度である。


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