そんな状況の中、青山南町の家には連日のように、借金取りが入れ替わり立ち替わりやって来た。
「この間に北原のしたことは、作品を書くことではなかった。金になるものなら、何でも書き飛ばした。私もまた、スタイル社の経営上の一こまとして発行した『きもの読本』にのせるためにデザインした、諸種のきものを『宇野千代のきもの』と銘打って売り捌いた」(『生きて行く私』より)
米国で着物ショー開催も経済的苦境が続く
千代がジェトロ(日本貿易振興機構)の依頼を受け、米国シアトルで「きものショー」を開催した1957(昭和32)年、スタイル社は会社更生法の適用を受けて再発足した。
一部の債権者が「スタイルの店」を占拠する騒動が起きたりしたが、千代は京橋の裏手に「宇野千代きものの店」を出し、着物を売り続けた。
千代が店に不在だったある日、お得意様の平林たい子がこんなことを言い置いて帰ったという。
「こんな、きものを作って売ったりしないで、どうして文学一筋にやっていかれないのかねぇ」
金策に行き詰まった千代は、平林の家を訪ねて20万円の借金を申し込んだ。平林は何も訊かずに、返してもらえないかもしれない金を貸してくれた。千代には平林が観音様にも、後光がさしているようにも思えた。
「私は決して文学一筋ではなかった。しかし、私の心の中は、そのときの生活とは関係なく、いや、そのときの生活が文学から離れていればいるほど、文学一筋なのであった」(『生きて行く私』より)



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