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国税庁の査察を受け1億円の追徴も…朝ドラ《ブラッサム》宇野千代が「書くことも憚られる」と振り返る"お金の事情"

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戦後になって宇野千代が直面した経済的な苦境とは(写真:Graphs/PIXTA)
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国税庁の査察だった。理由がわからず、どうして査察が行われるのか係官に尋ねると、きっかけは一通の投書だった。スタイル社の業績や納税についてこと細かに記した上で、「どれほど膨大な脱税が行われているか、調べてみては如何か」と書かれていたという。

こうした投書は同業者からのものが多いということだったが、取り調べが進むうちに、膨大な金額の脱税が明らかになった。

「脱税。そんな言葉を私たちは、自分たち自身に関連のある言葉として、考えたことがあっただろうか」(『生きて行く私』より)

千代も、ともに事業に携わってきた夫の北原も、雑誌の編集には心を砕いたが、経理にはまったく無関心で、すべてを社員に任せっきりだった。3カ月後、国税庁から示された追徴金は1億円近かった。その支払いのために熱海の別荘を売り、壬生の北原家の家屋敷も手放した。

1955(昭和30)年にはスタイル社を木挽町の家に移して2階を住居とし、港区青山南町に小さな家を建てて北原の仕事場としたが、スタイル社の経営は悪化する一方だった。1956(昭和31)年、とうとう木挽町の家を売却することになった。

千代は1951(昭和26)年から4年間、「女流文学者会」の代表を務め、この家に吉屋信子、三宅艶子、中里恒子、真杉静枝ら十数人を招いたこともあった。その家が、女に料理屋をやらせたいという買い手の眼に留まり、千代はスタイル社の事務所を歌舞伎座前のビルの1階に移し、自身は青山南町の家に移った。

競合女性誌が次々登場、深刻な経営難に陥る

「私は人の妾のために、この家を建てたのではなかった、と苦笑して見ても、始まらなかった」(『生きて行く私』より)

追徴金の支払いに追われている間に、女性向け雑誌に変化が起きていた。1950年代に入ると朝鮮特需の影響で生活が安定し、読者の関心は「憧れ」から「実用」へと移っていたのである。

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