こうした受容的な改革姿勢は、組織の歪みを断罪して一気に改宗させる一神教的改革ではなく、仏教で言う「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」の発想に近い。組織の矛盾を切り捨てるのではなく、業や縁起として引き受け、方便として少しずつ転じていくという態度である。日本人が日常的に使う「しようがない」という言葉がその潜在心理を物語っている。
奥田氏や坂根氏は、自社の強みと弱みを組織の内側から知り尽くしていた。しがらみも含めて会社の実情を骨の髄まで知る生え抜きだったからこそ、目先の成果と長期的な競争力の両方に目を配ることができた。だからこそ、彼らの決断は一時的な数字合わせに終わらず、次の世代にも通用する果実を残したのだろう。
その姿勢は、具体的にどのような決断となって表れたのか。
プリウスの超短期開発を成功させた2つの要因
1995年、奥田氏がトヨタの社長に就任した当時、国内販売シェアは40%を割り込んでいた。奥田氏は役員会を徹底的な議論の場へと変え、スピード重視の組織改革を断行する。その象徴が、世界初の量産型ハイブリッドカー「プリウス」の超短期開発だった。当初90年代末を視野に入れていた発売時期を、号令一下、97年へ前倒しさせたのである。
予算・人員の制限を大幅に取り払い、当時チーフエンジニアだった内山田竹志氏(後にトヨタ会長、現相談役)を中心とする少人数の専任チーム「G21」に開発を委ね、社内のどの部門からも技術や人材を横断的に集められる権限を与えた。既存の縦割り組織では実現しにくかったこの体制が、現場の技術的知見を量産技術という成果へ結びつけた。
もっとも、トップが強烈なプレッシャーをかける目標設定は諸刃の剣でもある。トヨタ子会社であるダイハツの認証不正や、ニデックの不正会計問題は、目標設定の厳しさだけを賞賛することの危うさを物語る。プリウスの開発が成功したのは、権限移譲と現場の信頼が伴っていたからだ。
プリウスの開発、とりわけ発売を前倒しする決断には、社内でも賛否両論があった。「21世紀に間に合いました」というキャッチフレーズで世に送り出されたこの車は、発売当初は売れば売るほど赤字だったともいわれる。
奥田時代のトヨタは、1ドル=80円台という歴史的円高の中で生産拠点の海外移転を進め、グローバル企業としての基盤を固めながら、同時にこうした採算度外視の技術開発にも踏み込んでいた。
ただし、当時と今とでは競争環境そのものが大きく異なる。


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