中合は近江、ツタヤは郡山出身の商人がそれぞれ興した店だった。山田百貨店も、隣接する伊達郡保原を出自とする。いずれも福島の地に根を張り、駅前有数の商業地を形作っていた。
大型店がひしめいた時代、この3つの百貨店も競い合っていた。ではなぜ、県庁所在地の福島市に百貨店が一つも残らなかったのか。本稿では、閉店に至った原因を探っていく。
②天秤棒一本で福島へ渡った創業者
3店あった百貨店のうち、最後まで残ったのが中合だ。中合は福島を代表する一番店。福島駅前通り商店街の副理事長・齋藤さんは70代で、当時の賑わいをよく知る世代だ。「百貨店といえば中合。特に贈答品を買うときはよく行った。あの包装紙じゃないとね」と思い出を振り返った。
中合の始まりは江戸時代までさかのぼる。創業者は近江(現在の滋賀県長浜市)の商人・中村治郎兵衛。天保元年ごろ、天秤棒をかついだ行商人として東北へ渡った。米沢、会津若松、二本松を回り、福島に目をつける。そして明治7年、荒町に中村呉服店を開いた。
福島で初めて「正札(しょうふだ)売り」を導入したのもこの店だ。客ごとに値段を変えるのが当たり前だった時代に、値段を一つに決めて売るという販売方法を取った。掛け値なしという新しい売り方は評判を呼び、荒町の小さな呉服店を福島有数の店へと押し上げていく。
大正2年、荒町から大町へ移転。城下町の中心地に店を構えたことで、商いの規模はさらに大きくなった。以来、中合は地域の「一番店」として、贈答品から呉服、高級品まで幅広く扱う存在になる。業界誌によると、「福島の三越」と評されることもあったそうだ。


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