しかし、うまくはいかなかった。
1989年、中合は総工費約10億円をかけて全館リニューアルを行った。しかし、客がより上質な品揃えを求める中、リニューアル後も商品構成はベターゾーンにとどまり、富裕層向けには振り切れなかった。
実際、福島店単体の売上高は1992年度の175.2億円から、93年度169.2億円、94年度168.6億円と、じりじりと後退している(『百貨店調査年鑑』)。巨額を投じたリニューアルをもってしても、客足を引き戻すには至らなかったことになる。
同じころ、ビブレ(かつての山田百貨店)も高級路線を掲げる一方、実際の商品構成は10〜20代向けという迷走を続けていた。
ツタヤも苦境に立たされる。1998年に郊外へ福島サティが開店すると、テナントを引き抜かれ、対策チームを立ち上げた。しかし立て直すことはできず、2002年11月、負債13億円を抱えて破産する。この福島サティが、現在のイオン福島店である。
この現実に街も気づいていた
1998年、中合の遠藤考社長はこう語っている。「福島は官の街で、郡山は民の街だ。郡山より活気がない最大の原因は、『他人任せ』『寄らば大樹の影』という風潮にある」(『とうほく財界』1998年3・4月号)。
百貨店の衰退要因として、モータリゼーションや郊外モールの進出がよく挙げられる。だが、遠藤社長はこれらを言い訳にしなかった。それらはすでに前提としてあるもので、それ以前の構造的な問題こそが本質だと言い切っている。
遠藤社長が名指しで悪手と評したのが、大学と病院の郊外移転だった。福島大学は1979年、中心部から市南部の金谷川地区へ移転。福島県立医科大学も1988年に中心部から約10キロ離れた南部郊外の光が丘地区へ移った。
学生らが街で買い物や外食をする機会が減ったことも、中心部から人を遠ざける一因になったと考えられる。


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