当時、こんなジョークがあったという。『中合の包み紙をはがすと、もう一枚ダイエーの包み紙が出てくる』。業界誌も、ダイエー流で危機を脱するのはいいが、度が過ぎれば中合精神が失われかねない、地元の名門を育ててほしい、という趣旨で釘を刺している。
山田とツタヤも、生き残りをかけていた
競合の2店も、何もしていなかったわけではない。
山田百貨店は1972年に総合スーパーのニチイと提携し、翌年の駅前移転後は「ダックシティ」のブランドで営業していた。その後、ニチイグループが店舗再編を進める中、1993年にダックシティ福島店は、福島駅前の平和ビルに店を構えたまま「福島ビブレ」へ転換する。
当時の店長は、それまでの店を「特徴のない、中高年女性向けの店だった」と振り返っており、若い客層を取り込むための業態転換だった。
ところが1996年、ビブレを駅から北へ徒歩10分ほどの曽根田へ移す計画が発表される。同時期、ニチイから社名を変更したマイカルグループは、市内で福島サティの新規出店も計画するなど、福島での店舗網を拡大していた。曽根田の新店舗は売場面積約1万7600平方メートル。1973年築の古い平和ビルでは実現できない規模だった。
駅前から見れば百貨店が一つ抜ける。しかしビブレ側から見れば、店舗を大型化し、生き残るための一手でもあった。
一方、老舗のツタヤ百貨店にも転機が訪れていた。創業家の社長が死去し、斎藤操夫人が後を継いだのを機に、1974年、高感度新型デパート「コルニエ・ツタヤ」へと業態を変えた。若い層と婦人層に照準を合わせ、駅前2強とは異なる、専門店を集めたビルという形で戦いを挑んだ。
それぞれが、その時の最善策を取っていた。


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