その後、中合は1978年にダイエーと、山田百貨店は1972年にニチイと、それぞれ資本提携を結ぶ。経営にも外部資本が入るようになった。
それでも、百貨店は地元側に立った。1982年、東口商店街近代化促進委員会が発足する。きっかけは、西口へのイトーヨーカドー進出だった。
会長は中合の横田理一社長、副会長は山田百貨店の菅野栄康店長。駅前で客を奪い合う2社のトップが、会長と副会長のペアでこの組織を率いた。当時のイトーヨーカドーは全国展開を進める勢いのある総合スーパーで、駅前の商店主たちは戦々恐々としていた。
福島に根を張った店として、街を守ろうとする。一方で、百貨店も一つの企業である。生き残るためには、自らの経営を守らなければならない。
合理化が街から何かを減らしていく
その矛盾がよく表れているのが、中合だった。
1973年の駅前移転にかかった巨額の設備投資の返済にオイルショックが重なり、中合の資金繰りは急速に悪化した。取引業者への支払いが遅れ、「中合が危ないんじゃ」とささやかれるほどだった。
追い詰められた中合は野村総合研究所に経営分析を依頼し、流通大手と手を組むべきだとの提言を受け、ダイエーとの提携に至る。
提携後は、ダイエーから経営者が送り込まれるようになる。1986年に社長になった薩摩嘉弘も、大阪商科大からダイエーに入り、岡山高島屋の代表取締役を経て就任した人物だ。「福島の心をつかみたい」と語り、『アイ・ラブ福島、アイ・ラブ中合』を掲げた。
ただ、社長は短期間で入れ替わっていく。中合の歴史をまとめた『百年の商魂』によれば、1985年から2002年までの17年間で7人。2、3年おきに新しい経営者が送り込まれ、その時々の課題に対応していく体制だった。
店の運営にもダイエー流が浸透していく。1983年7月1日、中合は直営だった食堂を廃止し、ダイエー系列の食堂に切り替えた。地元商店街からは「マチの中心がなくなる」という嘆きの声が出たが、実施された。


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