では、なぜここまで「認知 vs 非認知」の議論が、根強く続いているのでしょうか。
一つには、わかりやすいからだと思います。「学力が全てだ」「いや、人間力が全てだ」――どちらも極端な主張ですが、対立させると議論としてはとても盛り上がる。SNSでもテレビでも、こういう二項対立は拡散されやすい構造を持っています。
もう一つは、大人が自分の教育観を正当化する道具として、この対立が便利だから、というのもあると思います。
「うちの子は勉強はできないけど、人間力はある」 「うちの子は勉強しかできないから、人間力を鍛えなきゃ」
どちらの言い方も、実は同じ二項対立の枠組みに乗っかっています。子どもの中で、勉強と人間力が別々の場所に存在していて、片方が高いと片方は低い、というモデルを前提にしている。
でも、これまで見てきたように、本当は、勉強も人間力も、根っこのところでつながっているんです。
数学の問題集に向き合う時間が、忍耐力を鍛えている。部活の練習を続ける時間が、計画性と分析力を鍛えている。片方だけを鍛える、なんてことは、実はできない。
僕がこれまで見てきた「本当に伸びていく子」に共通するのは、認知と非認知のどちらか片方ではなく、両方を一緒に伸ばしていく回路を持っているということなんです。
本当に伸びる子は、「両方を一緒に」育てている
数学の問題を解きながら、粘り強さも一緒に育てている。 部活の練習をこなしながら、計画性や分析力も一緒に育てている。 読書をしながら、共感力と語彙力を一緒に育てている。
彼らの中では、認知能力と非認知能力が、別々の場所に置かれていない。同じ活動の中で、両方が同時に鍛えられている状態なんですね。
逆に、伸び悩む子というのは、この2つを切り離してしまっている場合が多いんです。「勉強のときは勉強、遊ぶときは遊ぶ」ときっぱり分けているから、勉強の中で非認知能力が育たないし、遊びの中で認知能力も育たない。
じゃあ、この「両方を一緒に育てる根っこの力」を、僕たちは何と呼ぶべきなんでしょうか。
僕は、これを呼ぶのに、いちばんしっくりくる言葉があると思っています。それが、世間で言うところの「地頭がいい」の、本当の正体なんじゃないか、と。
「地頭がいい」というのは、これまで、なんだかフワッとした、実体のよくわからない言葉として使われてきました。生まれ持った頭の良さ、勉強とはまた別の何か、みたいな。
でも、認知能力でも、非認知能力でもない、その両方を同時に育てる根っこの力――そう定義してみると、この言葉は急に輪郭を持ち始めるんですね。
そして、教育現場で「認知 vs 非認知」という不毛な二項対立に消耗している大人たちに、いちばん必要なのは、この「根っこ」の視点なんじゃないか、と僕は思っているんです。
二項対立をやめて、根っこを見る。そうすると、子どもをどう育てればいいのかの景色も、少しずつ違って見えてくるのではないでしょうか。


※ログイン後、コメント入力が可能です。