この発想は、大手プラットフォーマーの実装とも一部で重なる。Googleは教育向けサービス「Google for Education」において、Googleドキュメントなど複数人が同時に1つのファイルを編集できる協働機能を中核に据えてきた。Microsoftも「Microsoft Teams for Education」で、共同編集を前提とした授業設計を提唱している。Appleは、離れた場所にいる複数人が同じコンテンツを同時に体験できる「SharePlay」をiPadやiPhoneに搭載している。
つまり「協働」という思想自体は各社が共有している。違いは、それを学習体験の中心に置くか、周辺機能として位置づけるかだ。KhanmigoやDuolingo Maxが「AIと1人の生徒」の関係を深める方向に進んでいるのに対し、Enumaの2人は「1台を複数人で囲む」状態こそが理想だと語る。ここには明確なアプローチの違いがある。
日本の教室に引き寄せて考えると、この対比は示唆的だ。1人1台の端末は、たしかに一人ひとりの進度に合わせられる。だがそれが「全員が別々の画面を見て、別々のことをしている教室」を意味するなら、テクノロジーの使い方としては目的と手段が入れ替わりかねない。
「デジタルは孤独」は思い込みか
CEOのスイン氏は、親が抱く罪悪感そのものに切り込んだ。
デジタルは1人でやるもの、という前提が世の中には強くある。だが考えてみてほしい、と彼女は言う。子どもが1人で本を読んでいるとき、私たちはそれを「孤独な学び」だとは思わない。むしろ望ましいことだと考える。
にもかかわらず、同じ子どもがタブレットを見ていると、途端に「1人にさせてしまっている」と感じる。この非対称こそが思い込みだ、というのが彼女の指摘だ。デジタルだから孤立している、と決めつけるべきではない、と。


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