SFCの数々の取り組みの中でも、とりわけ「学生による授業評価」は物議を醸した。92年11月25日の『読売新聞』には、〈他大学からの見学は多いが、取り入れられるかと聞くと、ほとんどの人が首をかしげる。とくに学生による授業評価に抵抗が予想される。〉とある。
この抵抗は他大学だけの話ではない。SFC創設を発案し、実現に導いた当時の塾長・石川忠雄氏は、92年2月15日の『産経新聞』のインタビューで「学生による授業評価」の効果を認めながら、記者から三田キャンパスで可能か?と聞かれると〈いや、正直に申し上げるが、これはなかなか大変だと思います。〉と答えている。
SFCはこれまでの“古い大学”の価値観を壊そうとしていた。そして、その“古い大学”の代表は、三田キャンパスを始めとする慶應の他学部だったのかもしれない。
伝統としての三田、革新としてのSFC
実際、開設当初から、慶應の他学部とSFCの確執はあった。
2004年に発行された『未来を創る大学 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)挑戦の軌跡』(以下、『未来を創る大学』)では、SFCの事務長を務めた原田悟氏が、開かれたキャンパスを目指してきたSFCが、同じ慶應内の他キャンパスとはそのような関係を築けず、〈特に三田キャンパスとの関係は立ち上げ時点から現在に至るまで底流に冷たい水が流れたままである。〉と検証している。
どうやら開設時に、SFCにだけ情報インフラが整備されたことに三田から不満がでたようだ。しかし、〈……SFC側は『三田は古い』と一蹴することで……〉(『未来を創る大学』)、関係が冷えていった。
開設当初から総合政策学部長を務めた加藤寛氏は、02年6月8日の『週刊現代』のインタビューに〈三田の教授陣に反感を抱かせてしまったのは、常日頃から“三田は死んだ”と言いすぎた私の責任もありました。〉と答えている。
1990年代半ばごろまでの新聞や雑誌の記事では、SFCは概ね好意的に取り上げられている。中には〈……最近の慶応人気は、九〇年春に神奈川県藤沢市に開設されたSFC(湘南藤沢キャンパス)によるところが大きい……〉(『AERA』96年6月10日)といった言説もある。SFCの先進性を取り上げる時、その比較対象として三田の他学部を取り上げる記事も多く、三田からすれば面白くなかっただろう。
慶應の伝統としての三田と、革新としてのSFC。当時は慶應の中に、異なる2つの大学が存在していたと言えるかもしれない。


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