田中は以前から、スランプやイップスに陥る選手を見るたびに「次は我が身」と恐れてきたという。だからこそ、目に見える不調ではなく、目に見えない異変に自分がのみ込まれかけていると気づいたとき、恐怖は一層深いものになった。
「精神的な部分の燃え尽きがあるのかもしれない。一旦休んだ方がいいくらいの状態になっているんだろうなと感じるほどでした」
しかし、田中は休まなかった。恐怖に押しつぶされそうになりながらも、レースに出場し続けた。
走ることで得た「自分の居場所」
なぜ田中は、これほどまでに走ることに追い詰められるのか。
その原点のひとつは、競技を始めるはるか前、幼稚園時代にさかのぼる。本人によれば、当時の田中は落ち着きがなく、教室の外に出されることも多い「問題児」だった。お遊戯会でも目立つ役をもらえず、怒られてばかりだった。なぜ自分だけうまくいかないのだろうと、引け目を感じていた。
一方、母はマラソン選手として結果を残し、周囲の大人から「お母さん、すごいね」と称賛される存在だった。将来の夢もなく、自分には得意なことが何もないと感じていた田中は、小学生の頃、マラソン大会のような長い距離でなら勝てることに気づいた。
「それまでは問題児と思われていたけど、長距離が速い子というアイデンティティを得たことが、自分には大きかった。周りの目も、変わったように思います」
根本の性格が変わったわけではないが、周囲から貼られるラベルが変わった。田中にとって走ることは、「一目置かれるための手段」として始まった。自分の存在を認めてもらうための走りだった。
逆に言えば、走らなければ、自分は誰にも見えない存在に戻ってしまう。そんな感覚が、幼い頃から染みついているのかもしれない。だからこそ、一流のアスリートになった今でも、レースに出ることをやめるという決断は簡単ではなかった。
「レースに出ることだけをちょっと休止して、練習はいつも通りに続けたい。そうして1年後、驚くようなインパクトで復帰できたらどんなに素晴らしいだろう」
そんな考えが何度も頭を巡ったが、走ることをやめる不安と、このまま走り続けて結果を出せるのかという葛藤との間で、答えを出せずにいた。コーチでもある父は「走り続けることが道を拓く」といって休むことを許さず、衝突が続いた。
そうした中で迫っていたのが、今年の9月に名古屋で開催されるアジア競技大会の代表権が懸かった木南道孝記念陸上競技大会(木南記念)だった。ここで棄権すれば、なし崩し的に競技から離れることになりかねない。
「悩みに悩んで、最終的には出ることにしました。身体は走れるのに、気持ちが保てないからという理由で休むのは、結局は自分が納得しないんだろうなと」


※ログイン後、コメント入力が可能です。