ところが、その後ハルは急速に力を伸ばし、パリ五輪では3分52秒56で銀メダルを獲得。翌年の世界陸上東京でも、3分55秒16で銅メダルを手にした。東京五輪では田中とほぼ同じ地平にいた選手が、わずか数年で世界大会の表彰台に立つ存在になっていた。
田中をはるかに上回る勢いで、世界のライバルたちはタイムを縮めていた。
「身体は走れる」のに、走れない
しかし、田中を追い詰めていたのは、実力そのものではなかった。そのことを示すエピソードが、2026年春に上梓した書籍『希(ねが)わくばの詩(うた)』(世界文化社)につづられている。
世界陸上東京で、田中は1500mと5000mの2種目にエントリーしていた。最初のレースは、1500m予選。10着に終わり、この時点で敗退が決まった。
次に控えていたのは5000mの予選と決勝だった。本来であれば、1500mの準決勝と決勝が行われるはずだった2日間は、5000mに向けて疲労を抜き、コンディションを整えるための調整期間に充てられるべきだ。
ところが田中は、その2日を休養ではなく800mと1000mのタイムトライアルに費やした。そして、どちらも自己ベストを記録した。つまり、1500mで実力を発揮できなかったが「力を出せない身体だった」わけではない。
身体は仕上がっているはずなのに、本番になると同じようには走れない。血液データにも練習の数値にも、目に見える異常はない。そうした状態が長く続き、誰よりも田中自身が戸惑っていた。
「練習の質自体は上がってきていたし、血液データのような目に見える部分にも、何も問題はなかった。だから問題は、実際は目に見えない精神的な部分だったんだと思います。目に見えないからこそ、怖いという気持ちがすごく大きかった」
その感覚は、2026年に入るとさらに顕著になった。1月、ボストンのニューバランス室内グランプリ。そのスタート前、田中は初めて「ここは自分の居場所じゃない」と感じた。
世界との実力差はそれまでも感じてきたし、出場選手の顔ぶれも置かれている状況も、これまでと大きく変わらないはずだった。それでも、覚えのない違和感を拭えなかった。
5月のゴールデンゲームズinのべおかでも、力を発揮できなかった。5000mは、16分0秒89で21位。自己ベストから約1分半遅く、10人以上の日本人選手に先着を許した。


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