当時の欧米社会では、ナチスによるユダヤ人絶滅を正当化した優生学への反省から、「生き物の生態を遺伝や進化で説明するのは問題ないが、それを人間に適応してはならない」という不文律が生まれた。
すべての生き物は遺伝子の乗り物
政治にはまったく興味がなく、昆虫少年がそのまま研究者になったようなウィルソンは、無自覚なまま生物学の新しい常識を書いたことで地雷を踏み「キャンセル」されたのだ――ウィルソンに「レイシスト(人種差別主義者)」のレッテルを貼って糾弾するグループを主導したのは、日本でも人気の高いスティーヴン・ジェイ・グールドら左派の科学者たちだった。
だが翌76年に、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが“The Selfish Gene(利己的な遺伝子)”を発表し、進化生物学の数理的な理論を、「すべての生き物は、遺伝子が自らを複製して後世に残すための乗り物(ヴィークル)にすぎない」という卓抜な比喩で紹介した。
この本が世界的なベストセラーになると、「ヒトも多かれ少なかれ、利己的な遺伝子の乗り物ではないのか」という理解が少しずつ広がっていった。
この社会生物学論争は欧米の科学界だけでなく社会をも大きく揺るがしたが、奇妙なことに日本のアカデミズムからは完全に無視された。
ドーキンスの著作も1980年に『生物=生存機械論』(紀伊國屋書店)という邦題で刊行されたがほとんど話題にならず、1991年に『利己的な遺伝子』(同)と改題されて初めて広く知られるようになった。

