また、よくアスリートは「私服姿よりもユニフォーム姿のときがいちばん魅力的に見える」と言われるが、それはなぜなのか。
私服は、着る人がデザインを自由に選べる。体型の欠点を隠すことも、良く見せることもできる、いわば「作られた見た目」だ。
一方、まわしやユニフォームは、着用者間のデザインの違いをほぼ消し去る、均一化された装いである。デザインという“ノイズ”が消えることで、着用者本来の体型・プロポーション・所作という情報が、覆い隠されることなくそのまま伝わる。
一見、似合う服を選べる私服姿のほうに軍配が上がるように思えるかもしれない。
しかし実は、ユニフォーム姿こそ「その競技という文脈に最も適合した、本人本来の資質が最も色濃く出る見た目」であり、見る側はそこに、作られた魅力ではない“本物らしさ”を感じ取るのだ。
「均一化された装い」が本来の資質をむき出しにする
米沢龍が土俵の上でこそ際立って見えるのも、まわしという装いが、彼のスタイルという個人差をそのまま可視化する装置として働いているからだと考えられる。
競泳選手の水着姿、体操選手のレオタード姿、陸上選手のユニフォーム姿がしばしば「かっこいい」「美しい」と評される背景にも、同じ仕組みが働いている。露出度の高い競技用ウェアほど、着用者の体型という情報がそのまま伝わりやすく、私服では見えにくかった本来の資質が浮かび上がる。
「アスリートはユニフォーム姿がいちばん魅力的に見える」という、多くの人が漠然と感じている印象には、こうした裏づけがあったわけだ。

