いつかは中国大陸を取り戻すという「反抗大陸」を国民党は掲げていたが、同時に現実的な生き残りをかけるという「莊敬自強 處變不驚」(恭しく自らを強め、状況の変化に驚くことなかれ)というスローガンも71年に掲げていた。現在、台湾国鉄に「自強号」という特級電車があるが、この名前もこのスローガンから来ている。
そして73年には台湾経済を近代的重工業へシフトさせ、高度成長の原動力となったとされている大規模インフラ計画「十大建設」を当時の蔣介石の息子である蒋経国氏が発表した。
発表当時にはすでに着工していたプロジェクトもあったので、正確には蒋経国による号令からすべての建設計画が始まったわけではないが、窮地に陥った中で国力高揚を内外へ宣伝する政治的意図もあったのだろう。そのような存亡の危機の中で、台湾の半導体技術者たちの挑戦が始まった。
危機が生みだした「生き残る知恵」
30年以上に及ぶ努力の積み重ねがあってこそ現在の世界的信頼が生じたわけだが、それ以外にも、台湾の生き残りをかけた特徴ある産業政策が貢献した。それは、同時期に経済成長していた韓国とは違い、日本と同じ産業との正面衝突をさけたことが挙げられる。
例えば四輪自動車や造船、家電など、台湾はこれら分野には重点を置かなかった。半導体の分野でも、競合していたメモリーではなく、CPUなどロジック半導体に注力していた。
97年から始まったアジア金融危機の中でも、台湾は飛躍を遂げる。それは、外貨準備高の豊富さに加え、ハイテク産業の躍進、つまり競合しない分野での半導体産業が貢献したことが大きかった。
一方で、日本の半導体産業が生み出す製品は優秀だったが、当時の日米貿易摩擦による半導体産業へのアメリカの風当たりの強さや、さらに「ムーアの法則」に言われるように数年周期でいち早く世代交代する半導体という製品は、日本の数十年は壊れないというタフさを十分に生かすこともできなかった。つまり、90年代後半のメモリーの価格競争は、日本に不利だったとの分析さえある。
冒頭のイベントでは、「日本が半導体で世界を席巻しようとしていた90年代、アメリカとの対立があった一方で台湾は何をしていたのか」という質問が会場から寄せられた。これには、OEMという相手先のブランドでの委託製造に特化した政策によって台湾は「黒子」に徹してシェアを拡大させたという「生き残る知恵」があったのだが、これに大きな反響があった。

