アメリカで称賛された台湾技術者たちの評価は、実は日本が失いかけつつある勤勉性といったエッセンスそのものだった。会場からは、とくに若い世代からは「目から鱗だった」と驚きの声が多く上がった一方で、年配の来場者の多くがうなずくなど、対照的な反応を見せた。
実はダムの技術者だった筆者の父も台湾の技術者たちに共感していた1人だった。戦中生まれの父は、戦後の東京で食糧難も経験し、進駐軍からチョコレートをもらった世代である。「うまい飯を食べたい」との思いで一生懸命勉強し働いたとよく話していた。
焼け野原から日本を立て直す使命を持っていた昭和世代の父が、台湾の技術者へ共感していたことは、筆者を含めた世代、今の日本が忘れかけている「よりよい暮らしという素朴な願い」を胸に、そこへまっしぐらに頑張ってきたという情熱の根源でもあったようだ。
「台湾存亡の危機」が半導体に向けさせた
『造山者』を見ると、現在の先端半導体など世界有数の技術と生産シェアを誇るようになるまで、一朝一夕ではいかなかったことがわかる。映画の中身については日本で公開されたときに読者の方々には見ていただくとして、ここでは台湾が生き残りを図るために半導体産業を選択した背景について説明したい。
台湾の半導体への挑戦は、1970年代に台湾が大陸中国に世界的存在を奪われ、孤立するという存亡の危機を迎えながら、「ではどう生き延びていくか」ということが出発点だ(中華民国や台湾といった名称をめぐる議論はここでは触れず、「台湾」で話を進めていく)。
1949年に中華人民共和国が成立し、敗れた中国国民党(国民党)は台湾と福建省などの一部の島だけを実質統治するようになった。さらに1971年に国際連合の代表権を失い、翌72年には日本と国交断交、75年には西側にあった南ベトナムがベトナム戦争で敗れて消滅。そして79年にはアメリカとも断交となった。西側からの援助も次第に期待できなくなり、存亡すら危ぶまれるのではないか――。そんな危機感が充満していた時代だった。

