この迷宮を一掃したのが、コペルニクスだった。
彼は、神が創った宇宙にはもっと単純で美しい秩序があるはずだと考え、地球ではなく太陽を中心に据えた。そうすることで、あれほど複雑に考えていた惑星の動きを、驚くほどすっきりと説明できる道筋を開いた。
同じことは、その後の科学でも繰り返される。
ニュートンは、それまでばらばらに唱えられていた自然界の法則を、たった一つの体系でまとめ上げた。20世紀に入ると、アインシュタインが、より少ない原理でより多くの現象を説明する枠組みを築く。あの「E=mc²」も、物質とエネルギーが同じものであることを、シンプルな式で言い表している。
科学の歩みとは、世界の説明を、より少ない前提へと削ぎ落としていく歩みだった。
オッカムのカミソリ――「仮定は少ないほどいい」
この精神を、みごとに言い当てた言葉がある。「オッカムのカミソリ」だ。
14世紀の哲学者オッカム村のウィリアムは、「ある事柄を説明するのに、必要以上の仮定を置くべきではない」と説いた。A、B、Cの3つが要る説明と、AとBだけで足りる説明があるなら、後者のほうが優れている。よけいなものを、カミソリで削ぎ落とすように、である。
これは、いわば「思考の節約」の指針だ。
20世紀の哲学者クワインは、この考えをさらに推し進めた。彼によれば、科学もまた一つの「信念体系」にすぎない。それでも科学が優れているのは、最も少ない手間で、最も多くの経験を説明できるからだ。つまり科学は、「難しく考えずに済ませる」効率がよいから優れているのだ、と。
私たちが受けてきた教育も、この延長線上にある。
ニュートンの運動方程式にせよ、アインシュタインの数式にせよ、人類が何世代もかけて考え抜いた成果を、私たちはいま、シンプルな公式として一瞬で学ぶ。先人が悩み抜いてくれたおかげで、私たちは、先人たちの思考の軌跡を学ぶことで、同じことを一から考え直さなくていい。
学問の歴史とは、単に「考える」営みの歴史ではない。むしろ、余計に考えなくてもよいように世界の説明を整理し、思考の手間を省いてきた歴史でもある。
これは決して後ろ向きな話ではない。考えなくていい領域が広がるからこそ、私たちは、本当に考えるべき次の問いに、力を注ぐことができる。
学ぶとは、考える回数を増やすことではない。考えなくていいことを増やし、いま考えるべき一点を、くっきりと浮かび上がらせることなのだ。

