国民が政治家に「社会の危機」との対峙を求めている時に、国のトップが「自分のインナーの確保」という次元の危機をドラマチックに語ってしまったことは、モフィットのいう「危機感の共有」を破壊し、「国民の苦しみから遊離した自己満足的な語り」としてかえって強い反感を買うという逆効果となった。
当たり前だが、国民は、「自分と同じように泥臭く家事をやるリーダー」を必要としているわけではない。「自分たちの生活を改善してくれる仕組みを、圧倒的な能力(テクノロジーと決断)で実装してくれるリーダー」である。致命的な「真正性」のはき違えは、有能さを全否定する方向に作動してしまうことになる。
「手作業でほつれをまつり縫いする」という細かい描写は、古き良き昭和的文脈では「つつましさ」として評価されたかもしれない。だが、合理性と効率を重視する現代においては、「首相という最も貴重な人的リソースを、外注や委任が可能な作業に浪費している(業務ボトルネックの発生)」と認識されてしまったのである。
「解決能力」なき「人間味」の提示は無能さのアピールにしかならない
このように見ていくと、高市氏の投稿の炎上は、「ポピュリズムのスタイル(「告白の真正性」による庶民派演出)」が、現代政治が要求する「テクノクラシー的スタイル(圧倒的な成果による支持確保)」と正面衝突して自爆した現象といえそうだ。
国民の負託に応える既存のシステムへの戦いが存在しない中での、「私はあなたたちと同じように泥臭く苦労しています」というアピールは、もはや「エモい政治」の材料にすらならず、「そんなことをしていないで、さっさとシステムを動かして我々の生活苦を解決しろ」という国民の冷徹な自己防衛本能によって一掃されてしまったのである。
これは、与野党に関係なく、テクノ・ポピュリズム的なコミュニケーション全体につきまとう深刻なリスクである。「解決能力」なき「人間味」の提示、「成果」なき「弱さ」の提示、「政治闘争」なき「無作法」の提示等々が、総じてただの「エリートの自己憐憫」として処理されてしまうことになるのだ。
国民生活が困窮すればするほど、この「テクノ・ポピュリズム」的な要素はますます排除できなくなるだろう。このような恐ろしく微妙な「綱渡り」が、現代政治における重要な要素になっていることに、わたしたちはもっと注意を払うべきだろう。


