天正10年(1582)6月2日、織田信長とその嫡男・信忠は、京都において重臣・明智光秀により討たれました。光秀は信長を打倒し「天下」を手中に収めるかに見えましたが、備中国から取って返した羽柴秀吉方との「山崎の戦い」で敗れ、落武者狩りに遭い、殺害されます。討たれた光秀の首と胴体は焼失した本能寺跡に晒されます。
その後、織田信孝(信長3男)と秀吉軍が主力となって、近江・美濃・尾張国などで光秀方の勢力の討伐が進められます(途中、信長次男の織田信雄もそれに合流)。
光秀方を討滅した信孝と秀吉らは尾張国の清須城(愛知県清須市)に向かいました。清須城には信長の孫で信忠の子・三法師(後の織田秀信)がいたからです。
三法師は天正8年(1580)の生まれでまだ幼少でした。三法師は美濃国の岐阜城にいましたが、本能寺の変の直後に尾張清須に避難していたのです。
信長の後継者を誰にするか
清須城には織田家の宿老(家老)が続々と集まってきます。柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興ら織田家の家老が清須城に参集し、今後の織田家の在り方を巡り、協議が行われたのでした(6月27日)。有名な「清須会議」です。
この清須会議については「信長の後継者を決定する会議」だったというのがこれまでの通説でした。信雄か、それとも信孝か、はたまた三法師か、誰が織田家を継承するかが大きな争点となっていたというのです。


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