『川角太閤記』(江戸時代初期に成立した秀吉の軍功を中心とした一代記・軍記)によると、柴田勝家は「三七様」(信孝)を推したとあります。年齢や利発さを理由に信孝を当主に推薦したのです。
それに異を唱えたのが秀吉でした。秀吉は「城之助様(信忠)の若君(三法師)がおられるのであるから三法師様をお取立てするのがもっともである」と主張したのです。勝家は秀吉の言い分に納得しなかったのですが、それを顔色には出さなかったと同書にはあります。
家老衆はそれからしばらく「無言」でしたが、長秀が口を開き、秀吉に賛同する見解を述べました。信長の嫡男・信忠の子がいるのだから、これを当主とするのが然るべきだと言うのです。
秀吉が会議の途中で別室に向かう
ここで秀吉は「いつもの虫気(腹痛か。持病の中風と解する説もあり)が少し出てきた」と言って、会議の席を立ち、別室に向かいます。
秀吉が席を立った後には、長秀が勝家を説き伏せました。「上様(信長)が京都において御切腹されたとき、筑前守(秀吉)は備中国で大敵の毛利氏と対峙していたが、そこから引き返し、播州へ帰城。3日も休息をとらずに即時、攻め上り『かたき無道人』(光秀のこと)を討ち果たした。勝家もすぐに攻め上っていれば惟任(光秀)程度の者2・3人は踏み潰せたはず。(それができなかったのは)御油断したからであろう」と長秀は勝家を糾弾したのです。
勝家は長秀が説く「理」に言葉を返すことはできませんでした。そして秀吉・長秀の主張(三法師を織田家当主に)に賛意を示すのです。
長秀は別室の秀吉にこのことを伝えると、秀吉はまた会議の席に戻ってきます。
勝家は秀吉を前にして「虫気はよくなったのか。先程、貴方が主張したことに皆も同心した。めでたく、三法師様を天下人として我ら、仰ぎ奉る覚悟である。めでたし、めでたし」と伝えるのでした。
長秀の援護により、清須会議の大勢が決したというのが『川角太閤記』が記すところです。
「虫気が」と言って中座した秀吉ですが、枕や湯を取り寄せ「ゆるゆると御休息」していました。また心中では「(自分の中座した後も)詮議は紛糾し、すぐにはまとまらないだろう」と思っていたといいますから、仮病でしょう。


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