『武功夜話』(信長や秀吉に仕えた前野一族の古記録。偽書説もあり)には、本能寺の変(1582年6月2日)を知った秀吉は、極秘に船に乗って、播州(兵庫県南西部)まで辿りついたと記載されています。
播州赤穂の岬にて秀吉を出迎えたのは、秀吉の家臣・前野長康でした。ここで秀吉は長康と蜂須賀小六に、尼崎の池田恒興や摂津の高槻衆・茨木衆の調略(明智光秀ではなく、秀吉方に味方するように促す)を命じます。
6月7日、姫路から手勢500人を率いて尼崎へと向かった長康と小六は、恒興と面談。長康と小六は「筑前様(秀吉)はすでに姫路に到着され、備中からも1万7000の軍勢が続々と播州に引き返しています。ただいま、筑前様は諸軍の到着を待ち、出馬に備えております」と話し、恒興に秀吉方に加勢するよう伝達するのでした。
すると恒興は「我れ何ぞ合力を惜しむに非ず」と、秀吉方に付くことを確約します。
秀長軍は身なりも身体もボロボロ
一方で秀吉は、6月11日の明け方に摂津国尼崎に着陣したとあります。ちなみに「羽柴小一郎殿」(秀長)は、それよりも前に到着していたようです。
この時点での小一郎の軍勢は約3000人。強行軍だったということもあり、草摺(くさずり)はちぎれて袖が落ち、泥土に汚れ、身体の肉は落ちて、眼はくぼんでいる、といった状態だったようです。
こうしていよいよ、秀吉方と光秀方の山崎の戦いが勃発します。

