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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

「大河ドラマの主人公」秀長の活躍は書かれていない?《山崎の戦い》を描いた史料の違いを読み解く

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山崎の戦いの戦場となった天王山(写真: いってき / PIXTA)
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こうして山崎の戦いに敗れた光秀は、坂本城を目指して、落ち延びようとします。しかし、その途上の小栗栖(京都市伏見区)において落武者狩にあい、光秀は落命するのです。

『太閤記』によると、討たれた光秀の首は、村井春長軒の郎党が秀吉に持参したとあります。その郎党は莫大な引出物を賜ったようです。

光秀は首のみならず「死骸」をも探し出され、磔(はりつけ)にされました。その様を見た人々は「畜生の果てを見よ」と憎々しげに話していたと記載されています。

また、『太閤記』には、山崎の戦いで秀吉が信長の仇・光秀を討ったことにより、秀吉には「威光」が輝き、「天下の執権は秀吉である」と人々が思うようになった、「上下、媚(こびる)」をなすようになった、と書かれています。

秀長軍のことは書かれていなかった

ちなみに同書には、秀吉が船で備中から播州に戻ったとは記されていません。6月6日に備中高松を引き払い、8日に姫路に到着。11日午前中に尼崎に「参陣」したとあります。長康と小六が恒興を説得したことや、山崎の戦いにおける小一郎軍のことなどは記されていません。

実際には小一郎は天王山の山の手において、長康・黒田官兵衛らとともに陣取っていました。秀吉の本軍とは別に軍勢を率いていたのです。

このことから「秀吉のほかに総大将を務めることができたのは小一郎(秀長)だけであった」と評する向きもあります。

(主要参考文献一覧)
・黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(平凡社、2025年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)

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