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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

「大河ドラマの主人公」秀長の活躍は書かれていない?《山崎の戦い》を描いた史料の違いを読み解く

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山崎の戦いの戦場となった天王山(写真: いってき / PIXTA)
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『武功夜話』には、6月13日に天王山に向かったのは、「但州衆」(但馬衆)羽柴小一郎の軍勢6000だったとあります。その総大将はもちろん、小一郎。軍監は長康や、黒田官兵衛、堀尾吉晴らでした。

一方、それを迎え撃つのは明智方の松田太郎左衛門・並河掃部介ら約2000。

小一郎の軍勢は山城国を一望する「高地」「節所」に陣を構えます。その場所に陣を構えることを命じたのは「筑前様」(秀吉)でした。

早速、明智方の松田太郎左衛門の軍勢が押し出してきますが、それを狙撃したのが吉晴率いる鉄砲隊(300人)。吉晴の鉄砲隊は筒先を揃えて激しく明智方に攻撃を加えます。「高処」(所)からの鉄砲攻撃だったため、狙撃しやすく、明智方100人を討ち取ることができました。明智方の足並みが崩れたところを、秀吉方は山から駆け下り、さらに攻撃します。 

秀吉方の鬨の声(ときのこえ:士気を高めるために上げる声)は凄まじく、「天地をゆり動す」ほどでした。退却する明智方を追撃した秀吉方は「敵首五百有余」を得ます。

『武功夜話』には、山崎の戦いにおける小一郎の軍勢の活躍がこのように描かれています。山崎の戦いは秀吉方の勝利に終わり、同書には「御主」(信長)を殺した光秀の天下は「十日を待たず亡び候」と記述されています。そのことを「因果応報」としつつも、光秀の末路を「哀れ」とも記載していることが目を引きます。

「太閤記」に描かれた山崎の戦い

さて『太閤記』(江戸時代前期に成立した秀吉の一代記)にも山崎の戦いが描かれていますが、それによると光秀は松田太郎左衛門をそばに呼んで、「お前は山崎の地理に詳しい。よって急ぎ天王山に登り、山崎を見下ろし、敵方(秀吉方)に弓鉄砲を打ち掛けよ」と命じています。

松田太郎左衛門は弓鉄砲300余人、手勢700余人を率いて天王山を登ろうとします。

一方、秀吉も吉晴を呼び「急ぎ天王山に登り、備えを固めよ」と命じていました。吉晴は小勢をも顧みず天王山を登ろうとしますが、光秀方の松田太郎左衛門がすでに弓鉄砲隊を登らせていました。そこで吉晴方は鬨の声を上げて、弓・鉄砲で攻撃を加えます。吉晴の軍勢は小勢でしたが、援軍もあったことで、敵方の軍勢を討ち取ることができました。

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