1927年の金融恐慌、そしてそれ以降の不景気は教員の待遇を極度に悪化させる。昇給増俸の見合わせ、旅費手当・住宅料が廃止された。そればかりか地方によっては教員が大量に「整理」(解雇)、「異動」させられる。整理を苦にして自殺する教員もあった。都市部では町会が教員の住宅手当の廃止をしたとして、保護者が反対運動を起こすこともあった。
手当の問題だけでなく、町村財政の窮迫の影響で教員の給与の支払遅滞や不払いも起きた。そうした状況であるにもかかわらず、急激な人口増加によって、都市部では教室不足と教員不足が重なり、午前と午後に80人ずつの児童を担当させられるという恐ろしい状況もあったそうだ。
「バイト」で食いつないだ戦後と令和の問題
敗戦までの教員の待遇は、このように受難続きだったと言える。明治時代からずっと教員の給与や待遇は軽視されてきたのである。それは戦後になっても長く変わらなかった。1950〜60年代、教員の生活苦を象徴する言葉として「三ト」(アルバイト・プレゼント・リベート)が広まり、これをなくそうとする「三ト追放運動」が教育界で展開された。
給与だけでは暮らしていけず、教師は夜に家庭教師(アルバイト)をしたり、生徒に特別に授業をして保護者からプレゼントをもらったり、教科書業者からリベート(キックバック)を受け取ったりすることが常態化していたのである。
冒頭に記した給特法は1971年に成立した。休日勤務手当や時間外勤務手当などを支給しない代わりに給料月額の4%を教職調整額として支払うものだが、これにより、教員の給与が公務員一般よりも少しよくなり、前述の「三ト」から抜け出せたと言われている。

