そのため生活苦に陥りやすく、足りないお金は親戚などに借金するしかない、という苦境に立たされることも。内職として家庭教師をする教員もいたが、文部省は私宅で生徒を教授することは「生徒の心身発達上、生徒管理の公正上」問題があるとして、これを禁じた(1895年)。
家族がいる教員の中には生活苦により「父母妻子」は他人に哀れみを乞うか「餓死」するしかないとの窮状に陥ることすらあった。
経済苦に陥る教職が「卑賤視」される風潮で教員不足が加速
実は当時も教員不足が続いていた。学制発布(1872年)からの課題であり、転職する教員も多かった。教員の転職を食い止めようとして、府県当局は市町村に「年功加俸」を支出させようとしたが、歯止めにはならなかった。
教員の経済的な貧しさゆえ、「世人」(世間の人々)が教員を「卑賤視」する、つまり卑しい職業だと見なす風潮もあった。これにより、教員を志望する者が減る一方、明治後半になると就学率が伸びて生徒数が増えた。負のループは加速し、教員不足が深刻になった。
当時の教員も多忙であり、授業・教案作成、成績評価、掃除監督、入学式・卒業式や記念式の準備、保護者訪問に追われていた。毎日平均12時間以上の「勤労」を要し、休日には「強制的講習会」もあったという。
大正時代になっても状況は変わらず、小学校教員の不足は続いていた。物価の高騰はやまず、教員の増俸運動が各地で起こった。政府は臨時手当の出費を地方に強いたが(出費を渋る自治体もあった)、それで教員の生活苦は改善されなかった。

