その禁忌が崩れるきっかけとなったのが、明治政府による肉食奨励だ。明治4(1871)年、政府は肉食を事実上許可し、翌年には明治天皇が牛肉を試食したことが新聞で報じられた。天皇みずからが牛肉を口にしたことによる、社会が受けた衝撃は大きく、肉食の普及に一気に弾みをつけた。
明治4年、戯作者の仮名垣魯文(かながき ろぶん)が発表した滑稽本『安愚楽鍋(あぐらなべ)』も、時代の空気を大きく動かした。牛鍋屋の座敷を舞台に、田舎侍から商人、娼妓までさまざまな人物が牛鍋を囲む様子を生き生きと描いたこの作品は、庶民の間に広く読まれることになる。中でも読者に強いインパクトを与えたのが、次の一文だ。
「牛鍋食はねば開化不進奴」
(牛鍋を食べない者は文明開化に遅れた者だ)
牛鍋は単なる食べ物を超え、時代の先端をいくことの証しとして受け取られていたのである。
明治8(1875)年の東京の牛鍋屋は70軒ほどだったが、明治10(1877)年頃には東京市内だけで500軒を超えるまでに急増。わずか2年で7倍以上という、驚異的な伸びをみせた。牛鍋は明治を代表する食として一世を風靡していく。
「いろは大王」が作った、日本初のチェーン店
こうした牛鍋ブームに乗じて、時代の寵児となった人物がいた。木村荘平、後に「いろは大王」と自ら称した男である。
京都伏見の農家に生まれた荘平は、若い頃から商才に長けており、青物商として成功したのち、明治13(1880)年頃から牛鍋チェーン店「いろは」の経営に乗り出す。
芝区三田四国町(現在の港区芝)に第一いろはを開いたのを皮切りに、店名をすべて「第一いろは」「第二いろは」と番号で統一するという、当時としては画期的な方式でチェーン展開を図った。「いろは四十八店」を目標に掲げ、死去するまでに東京市内22カ所にまで店舗を広げたという。
チェーンストアという概念すら存在しなかった時代に、これだけの規模を実現した荘平は、まさに時代の先を行く経営者だった。
荘平の強みは、仕入れの優位性にある。政府から官営屠場の払い下げを受けていた荘平は、肉の流通を押さえており、他店よりも上質な肉を安い価格で提供できた。当時の牛鍋の値段は一人前15銭ほど。庶民にとって決して気軽に出せる金額ではなかったが、荘平の「いろは」はその中でも割安感があり、客足が絶えなかった。

