「実店舗はないんですか?」
名前だけでは文化は残らない。お客さんが食べられる場所がなければ、人々の記憶は少しずつ薄れていく。
ラー博での営業終了が決まった頃、私も高橋さんから相談を受けた。來々軒は単なる老舗ではない。ラーメン史の年表に必ず記される存在だ。この火を絶やしてはいけない――そんな思いから、復活に協力してくれそうな人たちを紹介した。
すると誰もが同じことを言った。
「やっぱりお店がないとダメだよ」
高橋さん自身も、その言葉を痛感していた。
「だんだん覚悟が固まっていったんです。やっぱり店を作るしかないなって」
そしてもう一つ、大きな理由があった。祖父・高橋邦夫さんの存在だ。創業者の孫にあたる邦夫さんは、長年にわたりこう語り続けていた。
「いつか來々軒を浅草で復活させてほしい」
現在92歳。高橋さんは言う。
「祖父が元気なうちに浅草で絶対に復活させなくてはという思いがどんどん大きくなっていきました。後悔したくなかったんです」
もちろん周囲からは反対もあった。浅草は家賃が高い。観光地で競争も激しい。新規出店には決して向かない。いくつも閉店したお店も見てきた。
それでも高橋さんの考えは変わらなかった。
「お店がはやるかはやらないかはもちろん大事です。でも、おじいちゃんの悲願を叶えるという目的があったので」
そして物件探しを始めて間もなく、運命的な出会いが訪れる。見つかった物件は、創業者・尾崎貫一氏が眠る墓所のすぐ近くだった。
「見つけた瞬間、これは運命だと思いました」
偶然とは思えなかった。まるで來々軒自身が帰る場所を示してくれたかのようだった。
目指したのは、創業当時の味
しかし、思いだけで店はできない。高橋さんは飲食業界の人間ではない。本業はエンターテインメント業界だ。
「ラーメン屋を出すなんて初めてですから」
物件取得。設備工事。仕入れ。人材採用。メニュー開発。備品選び。数え切れないほどの決断が待っていた。
「これほどまでに壁があるのかと途方に暮れました。500個とか1000個とか、本当に一つずつ埋めていく感じでした」
そんな中、高橋さんが最後まで守ったのは「自分で決める」という姿勢だった。
「人に任せてお金だけ出すようなやり方はしたくなかったんです。自分で納得して、自分で責任を取れる形にしたかった」
來々軒の看板だけを貸すのではない。自分自身が納得してすべて決めて、歴史を背負う。それが高橋さんなりの答えだった。
看板メニューの「百年醤油らうめん」(写真:筆者撮影)
創業当時の來々軒は、豚の香りと醤油感を色濃く残した、やや濃いめの一杯だった可能性が高い…という仮説から再現された(写真:筆者撮影)
今回の復活で最も興味深いのは、味作りへのアプローチだろう。
多くの人は「昔ながらのあっさり醤油ラーメン」を想像するかもしれない。しかし高橋さんは違った。目指したのは、創業当時の味だった。
調査を進める中で見えてきたのは、來々軒の味が時代とともに変化していた事実である。大正、昭和へ進むにつれて、味が徐々に変わっていったという歴史が見えてきた。

