では明治43年の創業当時はどうだったのか。
当時の南京そばは、豚の臭みが強く、日本人には受け入れられにくかったといわれる。そこに創業者・尾崎貫一氏が醤油を加えた。豚の風味を包み込み、日本人向けに改良したのだ。
「実際に再現してみたら、なるほどこういうことだったのかと思いました」
高橋さんはそう振り返る。
つまり創業当時の來々軒は、現在イメージされる淡麗な東京ラーメンではなく、豚の香りと醤油感を色濃く残した、やや濃いめの一杯だった可能性が高い。看板メニューの「百年醤油らうめん」は、その仮説をもとに再構築された。
ラー博の調査によって特定された「さとのそら」を使用した麺。創業当時から関係の深いヤマサ醤油。豚・鶏・野菜を合わせた清湯スープ。広東風の赤チャーシュー。丸松物産のメンマ。史実と現代技術を融合した一杯が出来上がった。
そして、來々軒が残した功績はラーメンだけではない。「天津丼」発祥の店としても知られているのだ。
諸説あるが、「早く食べられる料理を」という客の要望に応え、カニ玉をご飯に乗せて提供したことが始まりとされる。今回の復活では、この天津丼にも強いこだわりが込められた。
ラーメン文化を未来へつなぐ
レシピは残っていない。写真もない。残されたのは文献だけだった。
そこで高橋さんは和食料理人である父と試作を重ねた。
文献には「カニ玉」とある。ならば本物のカニを使う。カニカマではなく、カニのほぐし身を使う。
利益だけを考えれば合理的ではない。それでも歴史への敬意を優先した。
そこに來々軒を復活させる意味があると考えたからだ。
今回の復活は高橋さん一人の力ではない。
新横浜ラーメン博物館、支那そばや、当時のどんぶりを作ってくれた小松屋、ヤマサ醤油、丸松物産、サッポロビール。そして浅草の人々。多くの人が手を差し伸べた。町内会への挨拶では「来年は三社祭でみこしを担いでね」と歓迎されたという。
創業から116年。半世紀の空白があっても、來々軒という名前は浅草の記憶から消えていなかった。それは高橋さん自身も驚いたことだった。
高橋さんは子どもの頃、自分が來々軒創業者の末裔であることを詳しく知らなかった。
「うちはラーメン屋だったらしいね、くらいでした」
しかし調べれば調べるほど、その存在の大きさに気づいていく。
もしかすると日本のラーメン文化の原点かもしれない。そう思うようになった。だからこそ、看板だけで評価される店にはしたくない。
「まずはちゃんと美味しいと言ってもらえる店になること。それが大前提です」
その先にあるのは、來々軒という名前を残すことではない。ラーメン文化そのものを未来へつなぐことだ。
「一人でも多くの方に、この一杯を通してラーメンや町中華の文化に思いをはせてもらえたらうれしいですね」
1910年に始まった一杯は、戦争による閉店、戦後の再出発、そして50年の沈黙を経て再び浅草へ帰ってきた。
祖父の願いから始まった復活劇は、今度は次の100年へ向かって歩き始めている。


