孤独な浪人生活の中でも、「一人で自分と向き合わないと勉強はできるようにならない」と学べた宮本さん。その感触は、後の創作活動の中にも確かに引き継がれていきます。
早稲田大学では交響楽団やジャズバンドでトランペットを吹いていましたが、いずれも「みんなとレベルが違いすぎた」と挫折を経験します。
そのあと岡山から一緒に東京に出てきた友達に誘われて劇団に入りました。そのときの先輩に感化されて、はじめて本をたくさん読むようになります。劇団を辞めた後は大学の授業にも出ずアパートにこもってずっと小説を読んでいました。その結果2年の留年を経験します。
一方で建築学科では卒論を書くために石山修武教授と出会い、5年生から真面目に勉強をし始めました。週に1冊のペースで本を読んでレポートを書くという個人レッスンを受け、「面白い」とほんの少しだけ褒めてもらえました。
ゼネコンの内定を辞退
卒業間際、ゼネコンの内定を手にしながら「サラリーマンになると思ったら嫌になった」と正月明けに内定辞退。父親に激怒され、5年間の勘当生活が始まります。塾のアルバイトで月収12万〜13万円、ゴキブリが出るボロボロのアパートでの生活を送りました。
「つらい5年間でした。でも何とかするしかないと思っていました」
その頃、塾でアルバイトをしながら家で模型を作ったり、研究室の先輩の手伝いで設計の仕事をしたりと建築の勉強を続けていた宮本さん。27歳の時、画家・建築家の荒川修作氏の作品、養老天命反転地に深く感動し、荒川氏が住むニューヨークに手紙を送ります。
「荒川さんに『建築の仕事をください』という内容の手紙を、作っていた模型の写真と一緒に送りました。すると、日本に来たら会ってくれることになりました。
いざ会うと『僕(荒川さん)くらい名前があっても誰も建築を作らせてくれないのに、大学を出たばかりでほとんど仕事もしたことがない君に、誰が建築を作らせるんだ』と怒られました。
ですが、『こうやって僕に会いに来るような奴はいない。君は度胸はある。あと文章は書ける。建築を作るのはクライアントを見つけたり大変だけど、文章なら紙と鉛筆さえあれば誰でも書ける。僕は建築をやる前にブループリントとして絵を描いていただろう。君もブループリントとして文章を書いてみたらいい』と言われたのです。
建築をやる前に小説を読みながら短い小説をいくつか書いていましたし、建築模型を作りながらもやはりときどき短い小説を書いていました。小説家になるのは大変そうだけど、荒川さんにそう言われたことをきっかけに、小説を書く人生を送ろうと決めました」

