天正6年(1578)10月、摂津国の荒木村重は、突如、織田信長に反旗を翻し、有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城します。『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記)には、村重謀反を知った信長の対応が記述されています。
村重が逆心を抱いていると知った信長は、怒り狂ったり、冷静さを失ったりはしませんでした。
まず、信長は村重の裏切りを本当のことだとは思わなかったとのこと。村重謀反を嘘だと感じた信長は「何か不満でもあるのだろうか。(村重に)思うところがあるならば、聞いてやろう」と言うと、松井友閑・明智光秀・万見仙千代の3人を使者に立てて、村重の意向を聞こうとするのです。
その時、村重は「少しの野心もございません」と言上しました。村重の返答を聞いた信長は、大いに喜び、人質として村重の母を差し出した上で「出仕されよ」と命じますが、村重は出仕することはありませんでした。村重の謀反心は本当だったからです。
信長は村重逆心を「是非に及ばず」(仕方がない)として出馬しますが、それでもまだ調停に期待をかけていました。光秀や羽柴秀吉・松井友閑をして村重を説得しようとしたのです。しかし、村重はそれを蹴ったのでした。
村重謀反の余波…丹波国の民衆が蜂起
『武功夜話』(織田信長や豊臣秀吉に仕えた前野一族の古記録。偽書説もあり)には、村重謀反の余波が記されています。
村重が「逆心」したために、丹波国の鬼ヶ城城主・赤井忠家、黒井城主・赤井直正、その他の者が「地侍」と語らい「蜂起」、要害を構えたというのです。彼らは但馬国朝来郡を窺う勢いでした。「牢人、百姓、野伏、法師」ら2000人余りが但馬に侵攻する勢いだったというのです。
羽柴秀吉は、弟・小一郎(秀長)を但馬に遣わしていたということもあり、小一郎と前野将右衛門を丹波攻めに向かわせます。約4000の軍勢でした。だが、山谷は険阻であり、連日、降雨もあり、行軍は難儀したようです。

