天下人・豊臣秀吉と弟である豊臣秀長にまつわる物語を史実に沿って紹介する連載「戦国最強の兄弟の軌跡」。今回は、地獄絵図と化した三木合戦について解説します。
織田信長から中国計略を命じられた羽柴秀吉は、播磨国をまず平定せんとして順調に事を進めていましたが、天正6年(1578)、思わぬ事態が起こります。播磨国三木城主・別所長治が突如、織田方に反旗を翻したのです。
別所氏は、播磨国守護・赤松氏の一族であり、その祖先・別所則治は東播磨8郡の守護代を務めていました。別所長治は、天正5年(1577)2月には、織田方として、紀州雑賀攻めに参加しています。
「別所小三郎」(長治)と「別所孫右衛門」(重棟。長治の叔父)は、羽柴秀吉・荒木村重・堀秀政らと共に雑賀に「乱入」し、端々を「焼払」っているのです(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記『信長公記』)。
それから約1年。別所氏は織田方を裏切り、西国の雄・毛利氏に付くのでした。別所氏が織田を裏切った理由としては、諸説あります。
例えば、軍議の席で別所氏の家臣が作戦について持論を展開するも、秀吉はそれに冷淡な反応を示したので、別所氏側が怒ったというもの。他には、長治の叔父の1人・別所吉親が長治に織田方と袂を分かつことを提言したからというものもあります。
しかし、こうした見解は『別所長治記』や『播州御征伐之事』などの軍記物語に記載されているものであり、そのまま信用するわけにはいきません。では、何が別所氏裏切りの真因だったのでしょうか。
別所氏が裏切った真因は?
当時、毛利氏に庇護されていた足利義昭は、別所氏に対し、織田から毛利氏に寝返るように調略を仕掛けていました。この調略が功を奏したというのが1つ理由として考えられます。
そして当時、毛利氏のほかに本願寺勢力も織田方に対抗していました。そうした情勢を鑑みて、織田から離反しても大丈夫、問題ないという判断が別所氏にあったと思われます。これが理由の2つ目です。さて、別所長治の離反により、いわゆる「三木合戦」が始まることになります。

