『信長公記』には、秀吉軍が総勢でもって三木城を攻撃すること、要所に付城を築き、別所氏を追い詰めたことが見えます。秀吉は三木城への兵糧搬入を遮断しようとしたのです。
それに対し、別所氏に加勢する播磨の勢力が三木城へ兵糧を搬入することを計画することもありました。それに勢いづいた三木城の城兵らは、秀吉軍に攻撃を仕掛け、合戦となることもあったのです(天正7年=1579年)。
信長も別所氏討伐を重視しており「三木城の結着が付くまでは、詰め寄せて手を抜かず、城の出入り口の番など、油断のないように申し付けておくことが重要である」と秀吉に書状で指令しています(『信長公記』)。
『武功夜話』(織田信長や豊臣秀吉に仕えた前野家一族の古記録。偽書説もあり)にも三木合戦についての記述がありますが、そこには秀吉の弟・小一郎(秀長)が登場します。
同書には、信長が但馬国にいる小一郎に書状を遣わし、三木城攻撃に加わるように令したとあるのです。小一郎は早速、三木城攻撃に向かいます。
餓死者が続出した「三木の干殺し」
同書によると、その軍勢は1200人。小一郎に従うは、前野将右衛門・生駒親正・藤堂高虎らでした。秀吉軍に多数の付城を築かれた別所氏は、兵糧の確保に苦しみ、三木城は飢餓状態となります。
「三木の干殺し」と称されるように、兵糧攻めにより、別所氏側に多くの餓死者が出てくるのです。当初、城兵は糠や馬の餌を食べていましたが、それが無くなると、牛・馬・鶏・犬が食されました。そうした動物が食されると、人肉を食べる城兵が現れます。三木城にまさに「地獄絵図」が展開したのです。

