付城構築と合戦により、別所氏を追い詰めていった秀吉軍は、天正8年(1580)1月6日、三木城に近い宮山の構(城主は別所友之。長治の弟)を陥落します。友之は「一戦に及ばず」三木城本丸に逃れました(信長公記)。
「3人が腹を切る代わりに、城兵の命は助けよう」
1月11日には、秀吉軍は、鷹の尾城(城主・別所吉親)の山下に兵を展開。これまた抗しがたいと見た吉親は、三木城本丸に兵を入れます。そして秀吉軍は、ついに三木城に攻め込むのです。城兵は防戦し、戦いが繰り広げられます。そうこうしているうちに本丸より、火の手が上がるのです。1月15日、秀吉方に付いていた別所重棟は、三木城内より、小森与三左衛門という者を呼び出し、別所長治・吉親・友之に「潔く切腹されよ」という書状を送ります。3人が腹を切る代わりに、城兵の命は助けようではないかというのです。
それに対し、別所氏からは、承知したので、城兵の命は助けてほしいとの返事が来ます。その返事に秀吉は「感歎」し、城兵を助けようと「返答」したといいます(信長公記)。
返答に満足した別所長治は、切腹を決意。1月17日の夕方、3歳の息子と女房を刺殺した長治は、将兵に感謝の言葉を述べると、自害して果てたのでした。その辞世の歌は「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」というもの。今はもう誰も恨まない、皆の命に代わって死んでゆく我が身であると思うと……との意味ですが、長治の将兵への想いがよくわかる歌であります。
三木城兵の命を助けることを約束した秀吉ですが、落城後、ことごとく城兵を殺害したとも言われています。上月城陥落後、城兵のみならず、女・子供までも虐殺した秀吉の行為を思えば、そうした説も納得がいきます。
(主要参考文献一覧)
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013年)
・桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(新人物文庫、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)

