丹波に入った小一郎の軍勢は、要害に立て籠もる敵方を追い崩していきます。
先陣の青木勘兵衛尉・梁田左衛門らは「案内者」長谷氏の先導により討ち入ったのでした。その数、500人。同書によると、鉄砲や矢を使用せずに、敵方を追い崩したといいますから、凄いものです。先陣の鬼神の如き働きにより、敵方は退却したのでした。この時、討ち取った敵首は、60余。降参してくる「百姓土民」もおりました。そうした者らは、宥免されたようです。
秀長が百姓らを味方につけた方法
そこには「御大将」小一郎の「御慈悲」があったとのこと。
降参した百姓らには但馬生野銀を与えた上で「放火乱暴」しないように申し含めたといいますから、手の込んだものです。百姓らは小一郎方の意向をもっともと思い、郷中に帰ったとのことですので、作戦は見事成功したと言えるでしょう。
丹波国の村々の人々を味方に引き入れるべく、小一郎方は人々に生野銀を与え「調略」したようです(兵糧調達の意味合いもありました)。そのため、百姓衆は羽柴の陣に参り、御礼を言上する有様。生野銀を配る作戦により、小一郎は丹波の百姓らを味方に付けたのでした。丹波の地侍の中には、小一郎方に加わる者も現れます。丹波衆2000人ほどが小一郎方に加わったそうです。
威勢溢れる小一郎の軍勢は、綾部の城を包囲。すると城主・江田兵庫頭は「開城」し、和を乞います。
小一郎は投降を許したので、江田氏は人質を出して、小一郎方に加わるのでした。抵抗する諸城には、容赦なく攻撃を加えていく小一郎の軍勢。そうした小一郎の「武辺」に丹波国衆は「肝をひやし」たといいます。
そうした折、任務を達成したからには、明智光秀と交代すべしとの信長の仰せもあり、小一郎は丹波から退くことになります。
『信長公記』にはこれまで述べてきたような、小一郎の軍勢の武功は記載されていません。明智光秀の動向が記されているのみです。丹波国の八上城(波多野氏)を光秀は攻めていますが『信長公記』によると、力攻めにするのではなく、四方に堀を掘り、塀・柵などを設けて、兵糧攻めにしています。
籠城する兵たちは、ついには草木の葉を食糧とするようになり、餓死者が続出。耐えきれなくなった城兵は、城外に出てきますが、明智軍はそれらの人々を容赦なく切り捨てます。そして最後には調略でもって、波多野氏を捕縛。安土の信長のもとに連行するのでした。

