伊予宇和島藩の出身で藩校に学んだ後に上京した末広は、明治8年4月に同紙の編集長として迎えられた。ところが、その2か月後に公布されたばかりの讒謗律・新聞紙条例を真っ向から論じて批判したことが、当局の目に留まったらしい。禁獄2か月、罰金20円という処分を受けてしまう。皮肉なことに、新法の最初の摘発対象になったことがかえって読者の関心を呼び、末広は一躍、世間に名を知られる存在になった。
批判精神は読者の支持を集めるが、その一方で、編集責任者の逮捕や発禁処分は経営を直撃する。実際、評論新聞の執筆者だった小松原英太郎は、政府への過激な批判論説を掲載したことで新聞紙条例違反に問われ、明治9年に逮捕・投獄されている。
政府との緊張関係は、大新聞にとって諸刃の剣だったといえるだろう。
大新聞の文芸面が育てた文学者たち
といっても、政治の硬い論説ばかりが大新聞の紙面を占めていたわけではない。明治後期になると、大新聞は文学・俳句といった文芸面にも力を入れるようになる。
その代表例が、政論新聞「日本」である。条約改正と欧化政策に反対する立場から陸羯南が創刊したこの新聞は、国民精神の高揚を掲げる硬骨の政論新聞でありながら、文芸欄に俳句や随筆を載せる懐の深さも持っていた。
明治25(1892)年、東京帝国大学を中退した正岡子規は、ほぼ同時期に新聞「日本」に入社。子規自身は政治記事を書く記者ではなく、もっぱら文芸欄を担い、「獺祭書屋俳話」の連載をきっかけに俳句革新運動を本格化させていく。
月並俳句を斬り捨て、写生を重んじる新しい俳句のあり方を世に問うた舞台は、まさにこの大新聞の紙面だった。晩年の随筆「墨汁一滴」「病牀六尺」も同紙に連載され、病床にあった子規にとって「日本」は文学活動そのものを支える基盤になっていた。
子規と同時代を生きた夏目漱石もまた、新聞と縁の深い文学者である。漱石は子規の友人として知られ、二人の交流は俳句や漢詩をめぐる手紙のやり取りにも残っているが、後年、漱石自身も朝日新聞社に専属作家として入社。「三四郎」「こゝろ」といった代表作を新聞小説として連載する。

