兵を出し続けるには兵糧も輸送も必要ですし、遠くへ軍を動かせば、その間は領国内に目が届きにくくなる。信玄が残した版図は大きな遺産でしたが、同時にその維持自体が重い負担でもありました。
家臣団も世代交代の時期にあり、信玄時代の重臣が相次いで亡くなる中で、新たな体制を組み直さなければなりませんでした。勝頼は城下町の整備や直轄地の再編を進め、新しい家臣層を登用しながら、領国の立て直しを図ります。
長篠の戦いも、補給線や同盟関係を踏まえたうえでの選択でした。長篠は、鉄砲の新しさと騎馬という従来のスタイルの古さが正面からぶつかった局面として語られやすく、勝頼の敗北は、時代遅れの象徴として扱いやすかったのでしょう。
結果は敗北でしたが、無謀だったと決めつけられるほど単純ではありません。
信玄時代の重臣が抜けた穴は、単に人数が減ったということではなく、経験と調整力が失われたということでもあります。
その中で当主は、新しい人間関係をつくり直しながら軍事と統治を立て直さなければならなかった。勝敗だけを見れば誤りに見える判断でも、その時点での情報と政治力学の中では、別の選択肢がそれほど残されていなかった可能性もあります。
しかし、「新しい時代に対応できなかった愚将」という構図はわかりやすく、複雑な力関係や厳しい経済事情から置き換えられていきました。
勝頼は、安定した基盤を受け継いだのではなく、拡大の反動と外圧が同時に押し寄せる局面で当主となった人物でした。
愚将ではなく「滅びた家」の当主
長篠の戦いばかりが取り上げられますが、勝頼の戦績は決して悪いものではなく、愚策の武将という印象は後世によるものと言えるでしょう。とはいえ、時代は完全に織田信長の勢いに傾いていきました。
上杉謙信の後継者である上杉景勝も、本能寺の変がなければ次に滅ぼされたと考えられていますが、それでも上杉家は残り、武田家は滅びました。
歴史は、家の滅んだ過程よりも、滅びという結果を強く記憶します。そして結果から逆算し、「あの当主が愚かだった」と説明するほうが、物語としては整いやすい。そうしてしまえば、厳しい財政事情も、同盟関係の変化も、家臣団の再編も、1人による失策という形にまとめることができます。

