戦術の巧拙よりも、人としてどうあったかを語るほうが、江戸時代の武家社会の中では家の名誉を保ちやすかったのでしょう。
とりわけ外様として幕府の秩序の中に置かれた上杉家にとって、祖先を「義の人」として語ることは、過去の力をいまの道徳的な価値へと言い換える作業でもあったはずです。
「敵に塩を送る」という話が広く知られるようになるのも江戸期です。戦国の実態をそのまま写したというより、平和な時代が武士の徳目を示す物語として整えた可能性があります。
合戦の駆け引きや兵站の現実を語るより、敵に対してさえ筋を通すという話のほうが、戦いのなくなった時代にははるかに使いやすく、印象に残る戦術でした。そうした話であれば、武士とは何かを語る手本にもなりますし、家の祖先を誇る材料にもなります。
上杉謙信は、戦国の当主であると同時に、江戸の武家社会が必要とした「義」の象徴でもありました。義という言葉は、謙信の内面そのものというより、のちの時代が武士の理想を語るために選び取った枠組みだったのかもしれません。
長篠の戦いで固まった「愚将」のイメージ
武田勝頼は、長く「愚将」として語られてきました。名将・武田信玄の跡を継ぎながら、その才覚には及ばず、無謀な戦で家を滅ぼした人物。とりわけ長篠の戦いは象徴的です。
鉄砲を備えた織田・徳川連合軍に対し、騎馬で正面から突撃し、大敗を喫した。ここから「時代遅れ」「状況を読めない指揮官」という像が固まりました。
講談や軍記物では、信玄の用兵の巧みさが称えられる一方で、勝頼はそれを継げなかった当主として描かれます。偉大な父と対照させることで、物語はわかりやすくなります。勝頼は、「名家の劣化版」という位置に置かれ、武田家滅亡の責任を一身に背負う人物として整理されてきました。
しかし、勝頼が家督を継いだとき、武田家の置かれた条件は大きく変わっていました。信玄の拡張政策によって版図は広がっていましたが、それを維持するには膨大な軍事費と動員が必要でした。
収入面は以前ほど安定せず、遠征の負担は領国経営を圧迫します。駿河支配も容易ではなく、北条氏や上杉景勝との関係も緊張をはらんでいました。領土が広がるということは、そのぶん守るべき領分も増えるということです。

