しかし、戦国の合戦は理念だけでは動きません。謙信がどれほど「義」を掲げたとしても、軍を動かすのは家臣団です。命を懸けて戦えば、土地や恩賞を求めるのは当然でした。越後国内でも家臣は容易ではなく、財政的にも負担が大きかったと考えられます。
戦国大名の力は、当主1人の覚悟や信仰の強さで成り立つものではありません。家臣たちが、その出兵にどれだけ納得し、見返りを見込めるかが常に問われます。
遠くまで軍を動かすとなれば、兵糧の準備や輸送の負担も増えますし、留守中の国内統治にも気を配らなければならない。謙信が掲げた大義がどれほど立派であっても、それだけで何度も出兵を維持できるほど、戦国の実態は単純ではなかったはずです。
謙信は関東管領としてという名目を掲げて出兵を重ねましたが、それは純粋な道徳的行動というより、政治的立場の維持とも結びついていました。
関東管領という立場は、単なる飾りではなく、足利体制の中で正統性を示すための重い名分でもあります。その名目を担う以上、関東に対して無関心ではいられない。つまり出兵は、義を実践する行為であると同時に、自らの地位を保つための政治的動機もあったのでしょう。
独身であったことも、家督相続や養子縁組の現実と無縁ではありません。体格の問題や女性説についても、同時代の史料に裏づけは見つかっていません。
戦国の現場に立てば、そこにあるのは信仰と同時に、利害と調整の積み重ねです。謙信もまた、その構造の中にいた1人の大名でした。
米沢藩と「義」の継承
では、なぜ謙信はこれほどまでに「義」の象徴にされたのでしょうか。鍵の1つは、江戸時代の上杉家の立場にあります。関ヶ原の戦いのあと、上杉家は大きく減封され、米沢へ移ります。かつての大勢力は、外様大名として幕府体制の中に位置づけられました。
会津を含む広大な支配を失い、家の規模が大きく縮んだことは、単に石高の問題にとどまりません。自分たちは何者なのか、かつての名門としてどんな家柄なのかを、あらためて語り直さなければならなくなったということでもあります。
その中で、家の正統性や名誉をどう語るかは重要な問題になります。江戸時代、武田家では甲州流軍学が体系化され、戦術や組織が理論として整えられていきました。
一方、上杉家の場合、軍制よりも「謙信という人物」が前面に出ます。私欲なく義を重んじた祖先という像は、家の誇りを語るうえで強い意味を持ちました。

