ただ、各地方を訪れると、「この土地こそが歴史の表舞台だった」という人々の思いが、確かに存在しているのを感じたことがあります。それは学問的な主張というよりも、もっと素朴な人間の恣意的な感覚です。
研究者であっても、その感覚から完全に自由でいることは難しいでしょう。邪馬台国が、単なる学問上の問題ではなく、多くの人々の思いを引きつけてきた理由の1つは、ここにあるように思います。
古代史の入り口に置かれ続けてきたテーマだからこそ、人々はそこに「日本の始まり」を重ね、簡単には手放せなかったのです。
邪馬台国の問題が、これほど長く決着しないのは、史料が少ないからだけではありません。文献、考古学、地元の言い伝え、そして人間の感覚。それらが重なり合いながら、日本史の最初の問いとなって居座り続けてきました。
邪馬台国論争は、答えを1つに定めるための問題というより、日本史をどう理解してきたのか、その過程そのものを映し出す問いなのかもしれません。
古代史の入り口で、私たちは最初から正体の不確定な「わからなさ」と向き合うことになる。そのこと自体が、邪馬台国というテーマの意味なのだと思います。
神武天皇に並ぶ「もう1人の主役」
日本史の始まりという点で言えば、聖徳太子ほど大きな人物として語られてきた存在は、そう多くはありません。
十七条憲法、冠位十二階、仏教の定着と制度化。教科書でも馴染み深いこうした言葉を並べていくと、日本の国家の骨組みは、この人物によって一気に整えられたようにも見えてきます。教科書や一般向けの歴史書で描かれてきた聖徳太子は、まさに万能の天才政治家でした。
その存在感は、日本の始まりを担ったとされる神武天皇に匹敵するものです。『古事記』で天照大御神の子孫とされる神武天皇が「国家の起点」を示す象徴だとすれば、聖徳太子は「国家が形を持ち始めた瞬間」を一身に背負わされた人物だった、と言ってもいいでしょう。
政治も宗教も思想も、この人物を中心に据えることで、国家の始まりから制度の整備までが聖徳太子の働きとして見えるため、日本の古代史は非常にわかりやすい物語として語られてきました。

