九州から畿内へという移動の筋書きは、「日本の始まり」を説明する物語として非常にわかりやすい。そのわかりやすさが、九州説を史料による以上に納得感のあるものにしてきた面があります。
邪馬台国の位置と神話の筋がつながると、古代国家の成立までが地続きに見えてくる。その見通しのよさが、九州説を強く支えてきたのだと思います。
研究の積み重ねが示してきた別の景色
ところが、研究が積み重ねられていくにつれて、このわかりやすい図式だけでは説明しきれない点が、次第に明らかになってきました。とくに大きな影響を与えたのが考古学上の成果です。
奈良県の纏向(まきむく)遺跡の発掘によって、3世紀前後の畿内に、きわめて規模の大きな政治的中心が存在していた可能性が高まってきました。大型建物跡や集落の広がり、各地との交流を示す出土品などを見ると、当時の日本列島において、畿内が特別な位置を占めていたことは否定しにくくなっています。
人や物が集まり、各地との関係を取り結ぶ中心としての大集落がそこにあったらしいとなると、従来の図式だけでは物足りなくなります。その結果、現在の研究状況では、畿内説が相対的に有力だと考えられるようになっています。
ただし、ここで注意しなければならないのは、「有力」であって「確定」ではないという点です。纏向遺跡が重要だからといって、それをそのまま邪馬台国と断定できる決定的な証拠は、いまのところ見つかっていません。
文献に書かれた女王国と、発掘された遺構とを結びつけるのは、いささか早計です。考古学が示すのは、そこに大きな中心があったらしいということです。
しかし、その中心が文献の中の邪馬台国とぴたりと重なるかどうかは、別の問題です。ここを急いでつないでしまうと、今度は考古学の成果そのものを曲解してしまうことになります。
また、邪馬台国をめぐる議論は、史料や発掘成果だけで動いてきたわけでもありません。研究者にも、それぞれ研究の根拠や方法論があり、さらに言えば、人間としての感性も異なります。自分が学び、研究してきた地域を、日本史の出発点に置きたくなる気持ちが、まったく影響していないとは言いきれないでしょう。
私は東京で生まれ育ったので、正直なところ、ほかの地方の人々の感性がどこまでわかっているかは自信がありません。

