そしてもう一方の当事者、支援し続ける吉本氏も同じ構造の中にいます。虐待やトラウマが絡む家庭環境では、同情や罪悪感が財布の紐を緩め続けます。渡した多額の金銭が数年で消えても、支援をやめられない。経済的に合理的な判断ができなくなっているのは、支援する側も同じなのです。
私たちにも損切りできない聖域はないか?
吉本氏のケースは「一部の特殊な人の特殊な事例」でしょうか? ここまで壮絶ではなくても、感情が邪魔をして経済的な合理性を手放してしまうリスクは、誰にでもあるはずです。
しかし、私たちが「これだけは外せない」と考える出費は、本当に自分の老後資金、ひいては自分の命を削ってまで守るべきものでしょうか。収入が減っても手放せない生活水準、自立しない子どもへの際限ない援助、見栄から続けている支出といった聖域を一度冷静に点検してみる必要があります。
そして、一見普通に見える家庭でも、誰かの「これだけは譲れない」という執着が、静かに家計を蝕んでいる場合があります。
私がFPとして相談を受けてきた中にも、そうした事例がありました。
会社員Aさんの父・Bさんは地方都市で長年開業していた医師で、その妻(Aさんの母)は買い物依存の傾向がありました。目についたものが少しでも気に入ると必ず手に入れ、そしてそのほとんどは使われませんでした。家には母が買ったもので足の踏み場がない部屋が、「開かずの間」のようになっていたといいます。
Bさんと息子2人(Aさんと弟)は、Bさんの存命中は母の買い物癖を「見て見ぬふり」をしていました。ところが、Bさんが亡くなり、母の浪費のせいで自宅兼医院の土地建物以外の遺産はほとんどないことがわかったのです。それにもかかわらず、母の病的な買い物依存は変わらず、遺族年金だけでは生活できません。最初のうちはAさん兄弟が母への経済的な援助をしていましたが、二人とも会社員だったため、できることに限界がありました。
