岡野プロデューサーは、細木氏の欲望に忠実な生き様に、ある種の憧れを感じた。だからこそ、監督には「別の感覚を持つ人を」と考え、瀧本監督にオファーした。
瀧本監督はそもそも細木氏のことが嫌いだった。嫌いな人物は描けないと2度断った末に引き受けた後、どう描くか逡巡が始まる。最初に提案したのは社会派路線だった。
「細木数子の闇をえげつなく暴いた溝口さんみたいなジャーナリストを主人公にしたものならやれる、と提案しました」(瀧本監督)
だが、岡野プロデューサーの返答は明快だった――。「それは私の見たい細木数子ではありません」。
次に模索したのは喜劇路線。全体をコメディーの文法で包めば、えげつない素材にも踏み込めると考えたが、すぐにやめた。
「宮藤官九郎さんのような才能は1ミリもねえわと思って。これは無理やと」(瀧本監督)
礼賛も断罪もしない
3つ目の構想で、ようやく突破口が開けた。自分の分身のような語り部を、作品の中に置く。最初は嫌々付き合わされた人物が、細木氏のパワーに絡め取られていく——。その構造をドラマの骨格にした。『地獄に堕ちるわよ』の語り手、小説家・魚澄美乃里の誕生だ。
こうして、「細木嫌い」な監督の分身が、「憧れ」を持つプロデューサーのビジョンの中で動き出した。
では、このドラマは細木氏を肯定したのか、否定したのか。率直に聞いた。
「一歩間違えば塀の中に入ってたかもしれんようなこともやった。行為そのものは嫌いです」(瀧本監督)
そう前置きしたうえで、こう続けた。
