当時主流だったのは、フライパンで両面を焼いてからオーブンで仕上げる方法。浩さんのやり方は、それとは違っていた。
「パサパサになるのが嫌で、オーブンは使わずに最初から鉄板で焼き上げていた。自分のおいしいの基準を大事にする、それだけ」
もともと料理が好きではなかったという浩さんは、こう振り返る。
「完全な料理人になりきれなかったから、良かった部分もある。料理人としての味やテクニックにこだわるよりも、みんなが感じるおいしいを探していたら、パイ包みスープも、ハンバーグもひとり歩きしていった」
「料理を作ることよりも、作った料理がその後どうなっていくかが重要だった」
清水の舞台から飛び降りる
全店舗合わせた年商はおよそ12億円。いかにして店舗を拡大していったのか。浩さんに尋ねると、ここでもあの言葉が返ってきた。
「結果論です」
店舗拡大を狙っていたわけではない。本店が軌道に乗り返済も落ち着いてきた頃、もうちょっとひとがいるところでやってみようと長崎県大村市に2号店を出した。今からおよそ19年前のことだ。行列ができるようになると、長崎に開業する商業施設の社長が嬉野まで訪ねてきた。テナント出店の依頼だった。出店には、約1億円の融資が必要だった。
「ひとりっ子やし、保証人もおらんし、まあ無理やろうなと思ってた。でも、貸してくれるところがあるんやったら、やらんといかんなと。清水の舞台から飛び降りる気持ちやったけど、3000万の借金を1回経験しとるけんね」
当時を思い出したように、苦い笑みを浮かべる。
長崎の商業施設がうまくいくと、福岡の商業施設からも声がかかるようになった。ベトナム出店のきっかけも、ベトナムに進出するイオンモールから、FCオーナーへ出店の打診がきたのが始まりだ。現地を訪れ、「いい街やな」と思った浩さんは、自身もホーチミンの日本人街に店を出すことにした。
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【当初の反応は「散々だった」】
